経緯

それは1994年とさかのぼる

大学在学中の出来事である。
私は外国語学部英米語学科の最中だった。
英語の授業である。パロケッティ先生といった。
その先生がある宿題を出すのである。
それが、ジャーナルというもの。
ジャーナルは、日々の日常を描いてというものだった。
一週間に1度提出だった。
普通の人は3〜5行しかかかない。いやかけない。
しかも英語で自由いいこと日記である。
想像が豊かでないとかけないものである。
私は30行びっしり書いてしまった。楽しかったのである。
そこから毎週1ページから2ページへと書いていくものだが
途中で先生の方が飽きてしまった。ノートはときくと
まだ読んでいないからとイヤな顔された。
それでもひっきりなしに書いていた。
先 生がおいつかない。とうとう、ノート1冊書いてしまった。
楽しくてやめられない。
そして大きな出来事があった。94年、オックスフォードへと
旅立つのである。そこで3週間遊んだわけだが、その記録を
ジャーナルとして書いていった。Can’t turn back the days
当時書いた本のタイトルだ。これは今でも保存している。
とかく書くことが好きだった少年はあまりそれがきづかずにいたようだ。
夢中に書いていたあの時代、懐かしいものだ

大学時代に1つの恋をした。一方的な恋である。
親友でいたかったのにと号泣され、関係が壊れた2人
実際、女性の方は親友とも思っていなかったのだろう。
よい断り文句である。がしかし、断る理由がない 場合は
親友でいたかったのに。
私は当時、彼女の話し方とリズムと笑顔が好きだった。
いや、本当は好きかどうかもわからない。内面はわからないままだった。
ただ、思い出として強烈に残った。
ロマンチストな私はこの記憶を何かに残したかった。
男女間の親友ってなんだろう?親友のようなカップルがいたら
なんていい関係なんだろう。
パロケッティの授業はまだ続いていた。私はこのテーマのジャーナル
を書くことにした。ノート一冊にそのテーマをつづった。英語で。
1996年のはじめだった。これが、自分にとってのはじめての作品となる。
卒業した私はもうちょっと詳細を書きたいと思った。
文具屋で1000年もつといわれている?高級紙の日記帳を買った。
B5判の1 50ページである。念いりに、漫画チックにセリフ帳で
セリフの前に顔の表情を書いて、読みやすいものにした。
ちょうど出来上がったのが1996年3月だった。
これを誰にも見せない日記帳にするつもりだった。
英語で書いてあったし、間違いだらけの英語である。
そのままにしておくつもりだった。何かの間違いで英会話学校いくまでは。

一本の電話からはじまった。当時はやっていた、英会話学校の勧誘である。
英語には興味あった。だが値段を訊いてやめようと思って電話切ろうとした
その理由として、僕は英語作家を目指しているので、会話で72万は払えないと。
そしたら、広報の女性がいうのである、自習室に作家のことを教えてくれる先生
がいるとのこと。し かも自習室は開講時間いつまでいても無料だと。
授業が終了したとしてもそこにいつづければ絶対あなたにプラスになるよ。
だんだんだまされたくなってきた。当時、英語で文章の構成を教えてくれる人が
ほしかったので、まんまとひっかかったのである。
カールクローリーという黒人の教頭だった。日本のことを日本人よりよく知ってる先生
この人が私を変える人となる。
横溝さんの推理をこよなく愛し、チェスとお茶が好きな外国人。
この人に親友みたいな恋人(STAY WITH ME)をみせてみた。
性格は描けている、途中までは面白かった。あとはつまらない。
君ね、授業はおまけでいいから、ここでシナリオ書きなさい。私が読んで思ったこという。
そういうではないか。最初は自分でもぱっとしなかった。
よく言われる。防犯ビデオ見ていてもつまらない。最初の5ページで面白いかわかる。
意味のないシーンなんて存在しない。3年間の間に、当時の職場の’忍’
禁断の’郵政の実情’ そして’探偵もの’どれもA4で150ページを超える大作だった。
それを書きあげた。当然書いただけ。当時、この方なんか、出版や映画のコネもってないかな
と淡い期待をしてたものだが、残念ながらなにもおこらなかった。
そして、なんとなくやる意味をなくしてしま い、2000年頃にはフェードアウトしてしまう。
実はそうなってしまうことの要因は他にもあったのだが。

時代は少し前後してしまうが、平松愛理、私の頭から離れない人である。
いや、時代は、親友みたいな恋人を書く前にさかのぼる。
95年7月、平松は当時、ラジオ番組をやっていたが、私は当時、親友でいたかったのに
とある女性に振られた頃だったんで、当時からロマンチストだった私は
その女性と番組宛てに抽象詩を書いた。平松さんには通じなかったらしく、
ちゃんと書いてくださいねーのラジオの聞こえる声を自分のことだと勘違いし
おきたことをちゃんと説明した手紙を送った。その答えがなかったが、
なぜか、3ヶ月後、ぐっぴー高橋由美子さんに提供した 最上級I LIKE YOU
として、その答えともとれる曲がリリースされた。
私は敢えて、聞かないふりをしていた。どうしても素直になれなくて。
しかしながら、98年6月ある決心をする。’STAY WITH ME'の解釈を
私なりにしてみました、と題して、英語ベースで書いてあった150ページを
すべて日本語にしてFAXに15週にわたって大量FAXしたのだ。
書き終わった頃のころである。
夜、文字が頭をぐるぐるして眠れない。そういう場合、書いて安心して寝ることに
しているのだが、フレーズがどかどかぐるぐるまわってる。
書きなぐって見てみたら、作詞になっていた。
それが何度か続いた。いつのまにか10の詞が出来上がっていた。
これよしに、できたと同時に平松の番組にFAXする。
千葉房総へ行く。海を見て涙が出る。この涙の意味は?そこで自分だけの脚本が
まわっていて、話が展開していく。これはいけるかもしれない。
作詞家になれるかもしれない、200は書いた。し かし、番組送っても何にも起きることはなく
ただ掃除をする人だった。

しばらく、平松ファンサイトに没頭していた。自分が何者かもわからずに。
2008年、所属してた会社が音楽企画をITで始める。また自分の心に火がついた。
表現者になれるかもしれない。急きょ、作曲をやることになる。
確かにファンサイトでMIDIをたくさん作った。音を聞き取ることもやった。
でも作曲って?というときにうってつけの本が出る。コード進行本である。
この本があれば、作曲できる能力はファンサイトで手に入れていたようだ。
2週間で25曲作る。僕はソングライターになれるかもしれない、
そう思った瞬間、この会社が休眠して私は職を失ってしまう。
僕は、いったい何がしたいん だ?またITに就職するも的を得ない日々が続く。
昔の記憶、六本木でオリコンで作詞家学校に通った日々、就職カウンセリング
したときに、小田和正の事務所を紹介されるが、自分は平松でと断ってしまう、
もし、あのとき、断ってなければ、こんなに不遇な人生にあわなかったんだろうか。
ここでまた、勘違いしてしまうのであるが、
自分はファンサイトを保有している。自分のファンサイト内なら自由に夢が叶う。
そう信じて、音楽、作詞、脚本を書いてきた。
しかし、私の名刺はなんだ?何者なんだ?ただのサラリーマンだった。
それに気づいたのが2015年3月なんだ。はじめて、書きものをしてから20年の
時が過ぎていた。私は何者かになろうと心新たにするのである。

追記:
2016年6月、BON CRESCENTはコンテンツ満了とした。
これからは平松愛理のコアファンで生きるのではなく
小畑秀敦は1つの価値をもって、ルーツは平松愛理のファン
ということにしていきたい。